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August 18 浮浪雲~終わりにこの旅行記を書き終えるのに1年が経ってしまいました。 書こうと思えばいつでも書くことができたのですが、筆が進まずにいつの間にか1年が過ぎました。
友人から「いつ次の旅行記がアップロードされるの」っと言われ、こんな不定期な旅行記を見てくれている人が いてくれるんだなっと思い嬉しく思ったこともありました。
もしも、楽しみにしていてくれた方が他にもいらっしゃったら大変申し訳ない事をしてしましました。 僕も改めてこの旅行記を読み直してみて良くも悪くもいい経験であったし、今ではいい思い出となっています。
但し、浮浪雲~中国(一)でも書きましたが、この旅行記に書かれている全てのことは、僕自身の個人的な主観や 価値観からくる物事の良し悪しの判断であるので、この旅行記を読んでいる方で、もし中国に行ったことのある人が 僕と同じ感想を抱くかと思うと、それは分かりません。旅ではその人が旅先で出会った人や経験によって そのイメージは激変するからです。
さらに、この旅行記はノンフィクションで書いています。 本当は自分の心の中にしまっておきたいことや恥ずかしいこと、それから現地で受けた衝撃的な事実、 または、涙が出るぐらい素晴らしい感動などを、読んでいただいている方にそのまま伝えたかったので、 あえて、事実を忠実に表現しています。
もしも、それを作り話で書いてしまうと、事実とつじつまが合わなくなってしまうし、読んでいただいている方に 旅の臨場感が伝わらないと思ったので勝手にそうさせていただきました。
読んでいて面白いと思われる方もいれば、不快な思いをされた方もいらっしゃると思います。 もしも、不快に思われた方がいらっしゃったら僕は素直に謝ります。大変申し訳ありませんでした。
この旅行記を読んで中国に興味を持った方や行ってみたいと思った方がいらっしゃったら申し出てください。 経験上知りえたことは包み隠さずお教えいたします。
また、中国に行った経験がある方やこれから行く予定の方は帰国後に感想を是非聞かせてください。
最後にもう一度、旅行記、浮浪雲を書き終わるまでに1年を要したことにお詫び申し上げます。 勝手を言って申し訳ありませんが、今後も不定期ながら旅行記を書く機会があると思いますが、 そのときもどうぞよろしくお願いいたします。 August 16 浮浪雲~中国 (八)上海 2009.9.19-2009.9.22 杭州から電車に乗り1時間少々で定刻に上海に到着した。 中国での電車は遅れると聞いていたが全く遅れることはなく、なんとなく拍子抜けのような感じがした。 上海の街は既に動き始めていて人でごった返していた。
上海駅から地下鉄に乗りユースホステルのある人民広場まで出た。 今回の宿は杭州のユースホステルでインターネットを通じて予約をしていたのだが、 いざ、人民広場に降り立ちユースホステルを探し出したのだが見つからなかった。
全くの油断だった。上海にしばらくいたため地図に印をつけておけば簡単に分かるだろうと高をくくっていた。 しかも、予約した時に地球の歩き方に記載されている地図に印を付けただけで住所や電話番号を控えておくのを 忘れていた。
分かっているのは人民広場ユースホステルという名前のみ。
一応、この辺だと思われる場所をうろついたのだが、そんなことをしても見つかる訳は無く、途方にくれて人民広場の 入り口のベンチに座っていると1組の男女カップルが話しかけてきた。
大きいザックを背負ってベンチに座って困り果てている僕を見かねたのか。
心配そうな顔をして
女の子 「どうかしましたか?」 僕 「ユースホステルを探しているんだけど、見つからないんだよ。」 男の子 「なんていうユースホステル?」 僕 「人民広場ユースホステルというところなんだけど・・・。」 女の子 「そう・・住所とか電話番号とかわからないんですか?」 男の子 「電話番号が分かれば僕が電話して場所を聞いてみるけど。」 僕 「それが住所も電話番号も分からないんだよ。」
男の子も女の子も僕と同じ困り顔をしだしていたが話を続けていると どうやら彼らは週末を利用して地方から上海へ遊びに来たということだった。 二人とも優しくて英語もよく喋るし色々話をしたのだが、結局インターネットカフェを探して 予約確認メールを見れば住所や電話番号ぐらいは分かるだろうということになり、 僕はインターネットカフェを探すことにして彼らとは別れた。
インターネットカフェと言っても、どこにあるのか全く検討も付かないがとにかく繁華街の路地を歩けば 何かしらあるだろうと思い歩き出した。
当ても無く歩いていることほど不安で疲れることは無かった。
英語で中国人に聞いてもあっちへ行けと言わんばかりの目で見られ、お決まりの「不没(無い)」の一点張り。 たまに指差しであそこだと指差されたのだがその先に行ってみても何も無かった。 散々、歩いた後、あるショッピングセンターに辿りつき中に入ろうとしたら、女の子3人組みに声を掛けられた。
事情を説明してインターネットカフェを探していると伝えると、「このショッピングセンターの3階に確かあったわよ」 と教えてくれ一緒についてきてくれた。
3階に着くと薄暗い部屋にPCがずらっと並んだインターネットカフェではなくPCゲーム場のような場所だった。 早速、インターネットをしてメールを確認すると、そこには住所のみ記載されていた。 その英語で書かれた住所を書き取り女の子に見せると多分、分かると思うということだった。
ほっとした。
彼女達は今からお茶を買いに行くので、その後なら案内してくれるということだった。 「あなたも一緒にお茶を買いに行かない?」っと誘われたので、これも何かの縁ではないかと思い、 重いザックをユースホステルに早く置きたいという気持ちを抑えてついてゆくことにした。
お茶屋はショッピングセンターの2階にあり、僕たち4人は店の奥に通されカンフー茶を見ながら 気に入ったお茶を買えるというシステムだった。
当然、僕はお茶を買うつもりはなく、北京の国士監でみたカンフー茶と同じものを見て、お茶とお茶請けを 頂きながら女の子3人と話をしていた。
彼女達は上海にある医療品関係の貿易会社の地方支店に勤めていて、今日は会議があって上海に 出てきたのだと言っていた。一通りカンフー茶が終わり最後に上海雑技団のチケットを店員が売ってきた。 彼女達は夜雑技団を見に行くからあなたもどうかと誘われたが、金銭的な事情もあって丁重にお断りした。
彼女達はお茶と雑技団のチケットを買い、僕はカンフー茶代を清算しようしていたら、 財布からクレジットカードのゴールドカードが出てきた。 僕は今までの人生でゴールドカードを持ったこともなく、今自分の財布に入っているクレジットカードは ANAのマイレージカードを兼ねた普通のクレジットカードである。 しかも、カンフー茶代は一人200元。貧乏旅行をしている身分で、たった1時間少々のカンフー茶に200元を 出費するのは非常に痛かったが、彼女達と出会わなければインターネットカフェは未だに見つからず 上海の街を彷徨っていたと思えば納得せざるを得なかった。
クレジットカードのことや、金銭的な理由から雑技団のお誘いを断ったこと、さらにカンフー茶代の200元を手痛い出費と 思っている自分が、なんとなく小さい人間に見えてしまった。
彼女達にユースホステルのある住所の通りまで案内してもらい別れた。
その通りは大通りから3本ほど通りを中に入った奥で、華やかな上海の大通りとは似ても似つかないような 路地だった。通りの両脇にはゴミが積まれ、生ゴミが散乱し、路上では食べ物を売る露天があり、子供は 歩道の真ん中で大便をしていた。参ったところに宿を取ってしまったと思ったが今更、宿を変更する気力も無く そのままユースホステルにチェックインした。
ユースホステルでチェックインし階段を登り部屋へ行こうとしたのだが、ユースホステルの館内が異常に臭かった。 鼻を突くようなこの臭いはいったい何なんだと思ったがどうしようもない。
部屋の鍵を開け中に入ると昼間なのに真っ暗だった。
窓がない。
息苦しい部屋だったが、歩きつかれたため荷物を降ろして、しばらく休むことにした。
後で気づいたのだが、このユースホステルが入っている同じ建物内には 生鮮食料品を売るスーパーマーケットと公衆トイレが同居している建物で、ユースホステルの真下が公衆トイレだった。 どうりで臭いわけだと思ったが、どうしようもなく上海から出国するまでこの臭いにまみれるしかなかった。
・偽ブランド品 発展途上国を旅行していると偽ブランド品に出会うことがよくある。
例えば、タイに行ったときには路上で有名スポーツメーカーのTシャツを日本よりもはるかに安い値段で売っていた。 インドネシアでもヨーロッパの有名サッカーチームのユニフォームが破格の安さで手に入れることが出来た。 上海でもこれと同じように偽ブランド品を手に入れることが容易にできる。
ある夜、ユースホステルから路地を歩きながら繁華街である南京東路へ向って歩いていると路上でルイビトンやシャネル、 グッチといった有名ブランドのバッグを売っている露店を見つけた。 暗がりもあって偽物か本物かの見分けは当然分からないが、たしかにルイビトンのバッグであることは間違いなかった。 値札を見たら225元(3,600円)と書いてあった。日本だったら20万円近くするようなバッグだと思うのだが、 そんなバッグが露店には30個ぐらいの品物が並んでいた。
一通り見終わって立ち去ろうとしたら店員2人が慌てて品物を陳列しているゴザのようなものを巻き上げて逃げていった。 その素早さといったら凄かったが、辺りを見回してみるとどうやら警察の車が近くを通ったのだと気が付いた。 警察に捕まるまいと逃げたのだが、僕はその光景が妙に可笑しくて仕方がなかった。
中国旅行の前に予め偽ブランド品の情報をつかんでいたので、違法とは知りながら偽ブランド品を探して 夜の街を徘徊することにした。
南京東路を歩いているとビルの地下にお土産物屋が軒を連ねている場所を見つけた。 チャイナドレスや扇子、お茶や陶器など様々なものが売られていたが、奥の方へ向って歩いてゆくと 怪しい雰囲気がしてきて案の定、ルイビトンやグッチやポーターといったブランドバッグが吊り下げてある店が 出てきた。
それも何店舗も。
僕はこの怪しい雰囲気がとても好きで、店員との怪しい雰囲気での英語のやり取りが面白く、また、このスリルの ようなものがワクワクして仕方がない。
値段の交渉をしてみようと思い数ある店の中で適当なお店に入りルイビトンの財布の価格交渉をしてみた。 財布を捜しているように店内を物色していると店員が何を探しているのか尋ねて来た。 ブランド物の財布か何かを探している旨を伝えると、怪しい笑みを浮かべながら陳列棚の下の引き出しを開けて ルイビトンの財布を出してきた。一応、ちゃんとした箱に収められていたが財布を触った時の手触りがビニールぽくて 一見すると分からなそうだが、こんなもんなのかと思っていると店員は更に別の引き出しから同じ型の財布を出してきた。
話を聞けばこちらの方が質がいいのだと説明してくれた。 最初に出したほうは、やはりビニール製だけれども、後で出したものは皮で出来ているとしきりにアピールしていた。 値段を聞くと皮製いう財布の値段は280元(4,480円)だと言ってきた。 買い物は1/3まで値切れと聞いていたので言い値で買うわけもなく、落としどころを100元と決めて最初は80元と言ってみた。 呆れた顔をされたが、250元、220元、200元と下がりだしてきたが、僕は80元を譲らず固持していた。 店員は益々呆れ顔になったが150元まで下がってきた。そこで僕は90元と言って歩み寄りを見せた。 店員も150元以下では売らないと言い出したので、では100元ならどうだと言って見たが、聞き入れて もらえなかった。
ここで交渉決裂と思い店を出ようとしたら「130元(2,080円)これがファイナルプライスだ」と言ってきた。
元々、自分用のお土産に財布を買うつもりだったので、目標価格である100元には届かなかったものの 130元で手を打つことにした。
買った後で店員が「日本人のあなたにとってこの30元の差がどれほどの価値があるのか?」っと呆れ顔で言っていた。 たしかに、30元といえば日本円にして480円である。480円だったら大学の学食で昼の定食の値段でしかないし、 コンビニで買い物をしたらペットボトルのジュース3本分の値段でしかない。日本で生活していたら、その生活の中で 何気なく使ってしまう金額であることには間違いない。
しかも、僕は決してケチな人間ではない。
ただ、外国で正当な値段が分からない上に、その分からない代物に対して明らかにボッタくっているだろうという値段に対して 僕はビタ一文として余分に払いたくないだけなのである。 適正価格でいいサービスをしてくれるのならチップも払うべきだとも思っている。でも吹っかけられたその値段で 買うことだけは断じて許されないのである。
その後も、別の店でポールスミスのシャツ120元(1,920円)を40元(640元)に、アルマーニのネクタイ80元(1,280円)を20元(320円) バーバリーのマフラー120元を38元(608円)と次々に値切り倒して自分へのお土産を買った。
これだけ値切って買ったのだが、最初に吹っかけられた値段から実際に支払った値段を見比べても 相当吹っかけてきていることはよく分かったのだが、これだけ値切られても商品を売るということは 値切った値段でも利益を出せるのだから、仕入れ値はいったいいくらなのかを知りたくなってしまう。
これは後日談になるのだが、上海で買った偽物ルイビトンの財布と同じものを日本のルイビトンのお店で見つけたが こちらの価格は52,500円だった。 帰国後その財布を使い出したのだが結局、半年後には財布のあちらこちらが破けだし使い物にならなくなってしまった。
やはり、偽物はそれなりの品物である。
・妹との再会 杭州から上海に戻り、日本に帰国するまでは4日間の滞在になった。 北京に行く前の滞在で上海のほとんどの観光地は見て回っているので観光するところはなかった。 偽物ブランド品を見て回ったり、以前カメラを盗難された南京東路をブラブラあるいてみたり、 怪しい回転寿司屋に入ってみたりと暇をつぶしていた。
上海には僕の事を兄と慕ってくれるリキブンという中国人の女の子がいる。 彼女は僕が通う大学に留学してきて、同じく僕が在籍する日本語教室に来てくれたことで出会い、 親しくなり、僕もリキブンの事を妹のように思っていた。
彼女が日本の留学を終えて帰国した後もお互いに連絡を取り合っていて、今回の中国への旅も彼女が 色々調べてくれたり、いいアドバイスをたくさんもらった。
彼女は中国へ帰国後、日本語の語学力を活かして上海で日本人留学生のコーディネートをする会社で 仕事をしている。
上海に滞在中の或る日、彼女の会社が主催する上海復旦大学の学生と日本人留学生との 日中交流会のイベントがあるということだったので、僕も一緒に参加することにした。
地下鉄を乗り継いで会場まで行ってみると、あまり広くない部屋に日本人と中国人が、何かを しきりに会話していた。
そのあまりの熱気や中国語を全く話せないため会場に入ることも出来ず受付でリキブンと話していると 会社の上司が来て会話に加わった。
僕は今まで中国で起きた出来事を上司に色々話したのだが、終始笑いながらその出来事についての理由を 聞かせてくれた。
その上司は僕との会話の中でとても印象的な事を教えてくれた。
「もし100年の歴史を見たいなら上海へ、1000年の歴史を見たければ北京へ、5000年の歴史を見たければ西安へ行きなさい。」
この言葉を聞いて納得してしまった。
この三つの都市の内、上海と北京に行ったが僕自身も100年と1000年の歴史をこの二つの都市から感じていた。
上海は100年前、ヨーロッパや日本の租界が誕生し改革開放から経済成長が目覚ましく、今の中国を象徴するような 近代都市と化している。中国の激動の100年間の歴史がここにあると、そう感じていた。
北京は紫禁城など中世からの歴史がある。中国歴代王朝がその首都を置いていた場所だけあって長い歴史がそこにはあった。 そして2008年夏の北京オリンピック開催まで。
本当に納得できた。リキブンの上司との会話で色々な疑問が解決された気がした。
その後、日中交流会を後にして、リキブンは僕を韓国料理レストランに連れて行ってくれた。 場所は復旦大学の近くにあって、韓国人留学生の為のレストランという感じだった。 店内に入ってみると大きな鉄板がテーブルに備え付けてあり、僕たちは食べきらないぐらいの焼肉を食べた。 ↑巨大な鉄板
ビールも飲んだ。 この頃、僕は中国の青島ビールが好きになっていた。なにが好きという訳ではないのだろうが異国で飲むビールは 味がどうのということよりも、異国で飲んでいるというエキゾチックな感じや開放感が勝るため印象的に感じるのだろうと 思った。
奥のテーブルでは韓国人留学生の20人ぐらいの集団が合コンをして盛り上がっていた。 どこの国の学生も日本と同じように合コンをするんだなと思うとちょっと可笑しかった。
食事が終わり、外をふらつき、カフェでソファーに座りカプチーノを飲みながら話をした。
リキブンには中国で起こった出来事や旅を総括をするような話をした。 それから旅に出かける前まで、日本で好きだった中国人の女性の話。
お互いにお互いのこれまでの出来事を話したが、僕は妹のように可愛がり心を許している彼女と話すことで 心に詰まっていた消化不良のような異物が取り除かれた気がした。
また、将来的に二人で中国と日本との間で何か事業をしようかという、嘘か誠かどっちもつかぬような 話で盛り上がったが、僕はまんざら嘘ではないと思っている。
話は尽きなかったが夜も遅くなってきたので、明日会う約束をして別れた。
翌日はリキブンは休みだったので二人で買い物をした。 シャン西南路というブランド品が並ぶ通りで買い物をしたがここはとても面白かった。 大通りは正規ブランド品が並び値段も日本と変らないかそれよりも高い値段で売られていた。 一方で、大通りから筋を一本入ると、そこは偽物や生産工場から訳あり品で安く払い下げられた バーバリーやポールスミスなど有名ブランド品が無造作に売られていた。
そのギャップが面白くて店を見て周り、その中のある店でバーバリーのシャツを格安で購入した。
リキブンと通りを歩いていると偽物を売る店の客引きが声を掛けてくる。 しきりに偽物ブランド品のカタログを僕たちに見せてきて、僕は笑いながら 「それは偽物だろ」というと、客引きも笑いながら「そうニセモノ」と返してくる。
駅に向っている僕たちに必死になって売り込んでくる。
僕 「本物じゃないだろ」 客引き 「ホンモノ!ホ~ンモノ!!」
客引きも僕も笑うし、リキブンは「嫌だ嫌だ怖い怖い」といって先を歩きだすし、この光景が可笑しくて可笑しくて 僕は仕方がなかった。
結局、駅まで付いてきたが僕たちは何も買わずに地下鉄に乗り、今度は有名なお茶屋へ行った。
お茶屋さんでゆっくりお茶を飲みながらお茶請けを食べ話をして夜になるのを待ってから、外難(バンド)へ行った。
↑外難(バンド)の夜景
以前、この夜景を撮り終えたあと、そのカメラを盗まれたので外難の夜景はカメラに収めていなかったので 写真を何枚か撮った。上海から日本に帰る前に撮ることができてよかった。
外難の夜景を眺めた後、帰りの路地を歩いていると何人かの物乞いとあった。 中国の物乞いについては、話を聞いていたが、勿論、生活が困って物乞いをする人はいるが、 中には日本で言うヤクザみたいな人に何か巻き込まれて手足を切られ無理やり物乞いにさせられる人もいるらしい。 それからお金欲しさに、血を吐いたと見せかけて赤いインクを着けているだけの人とか。
なるほどっと思いながら見ていたが、明らかに不自由そうな一人の施し缶に財布の小銭を入れた。
リキブンと外難の夜景を見た後、人民広場駅まで一緒に歩きながら華やかな上海最後の夜を見ていた。 小腹が空いたので通りにあるレストランに入ったのだが、ここの料理は最悪に不味かった。 リキブンが「お兄ちゃんの最後の夜に食べた料理がこれじゃ~」っと悔しがっていたが、これもいい思い出だと 僕は思っている。
リキブンとの上海での再会、そしてまたの再会を約束して別れた。
日本でであった中国人の妹と上海で再会できるという事が、僕はとても嬉しかった。 日本人や中国人、外国人問わず、人とは心から誠実に接すれば付き合いは続き、何かあったときには 必ずそうした人たちが自分を助けてくれると身にしみて実感した。
そうした付き合い方が、良い友人に恵まれている僕の人生の財産であることは間違いない。
・日本へ リニアモーターカーと聞くと未来の乗り物というイメージがある。 山梨県で試験を繰り返していて最近実用化が正式決定されてはいるものの未だ日本では実用されてはいないが、 上海では空港と市内を結ぶ路線として既に実用化されていた。 折角、上海に来てリニアモーターカーに乗るチャンスがあるのにそれを放棄することはないだろうと思い 帰国便に乗るために上海空港に向う途中に人生初のリニアモーターカーに乗車した。
↑上手く撮れていないが、これが駅舎とリニアモーターカー
↑リニアから見える上海郊外の風景 市中心部の高層ビルとは打って変わった風景に少し驚いた。
↑車内の電光掲示板。時速431Km/hは世界最速の列車としてギネスブックに載っている。
電車はフッとした感じで走り出すというか滑り出して、徐々にスピードが上がって行った。 しばらくすると室内にある電光掲示板には世界最速431Km/hと表示された。
外を流れる風景は日本の新幹線の比較は出来ないぐらい速いスピードで流れていた。 平行して走る高速道路の車もまるで一般道をゆっくり走っているように遅く感じた。 車内の振動もあるがカーブを曲がる時になんとなく横方向に重力を感じた。
このスピード感に僕は興奮せずにはいられなかった。
リニアは出発から7分30秒で空港に到着する。
外を流れる風景を眺めながら、僕はフッと考え込んでいた。
日本に帰ることは1ヶ月のくたびれた一人旅の終わりを意味し、僕は自分の国に帰る事を 懐かしく思い心待ちにしていた。
その反面、
もしも、このリニアが空港に到着しても飛行機にあえて乗り遅れさえすれば、日本に帰れなくなる。 変な表現をしたが、実は心のどこかに、このまま上海で就職して日本に帰るのをやめてしまってはどうだろうかっと 真剣に思っている自分がいた。
事実、上海で出会った人たちの協力を得たり、日本語情報誌に書かれた求人などを駆使したり、 日本料理レストランで皿洗いでも何でもさせてもらえればこの街で生活できるのではないかと 思っていた。
僕は旅に出ると解放される。
普段、何のストレスも感じていないように思えて、実は色々なプレッシャーやストレスを感じている事を 僕の存在を全く感知しない海外に行くことで改めて思い知る。
良い友人知人に恵まれ、自分の財産だと思っている交友関係なのだが、その分、自分の行動が いつも誰かの目に留まり、見られているというプレッシャーが常に僕にはある。
本当はもっといい加減や適当に暮らして行きたいと思っているのだが、常に自分の行動を律して 役不足を痛感してはいるものの、後輩のいいお手本とならないといけないと、勝手に思い込んでいる。
それがストレスに変っているのだと自分の事を分析している。
やや愚痴っぽくなってしまったが、そんな生活にまた戻るよりも、この上海という街で仕事をして 暮らしていけたら大学院を中退してもいいのではないかと思ってしまった。
リニアの外を流れる風景に自分を溶け込ませようとしたが、リニアは空港に到着して、フッと我に帰ると 乗客は立ち上がりだし荷物を持ち出している光景を見て、現実に引き戻された。
そして、そのまま僕は中部国際空港行きの飛行機に乗り遅れることなく出国手続きをして搭乗した。
自分で自分に言い訳をした。
あと1年半後に学位を収めた後でもきっと遅くはない。 もしこの街に縁があれば、そのときに、またこの街に来ることが出来るはずだと、 そして本当に日本での生活を捨てたいとそう思ったなら、自分自身の気ままな人生なのだからそうすればいい。
だたし、今、日本の生活を投げ出すことは、ただ単に逃げ出したいだけでわがまま以外の何物でもないことである。 そう自分を再度、律した。
そして、日本に帰国し今までの生活に戻った。
中国を旅して、辛かったり、楽しかったり、悩んだりと色々だったが、結局、僕が理解したことは、 とにかくこの国は広く、多様で、長い歴史を持っているということと、この国を理解するには時間が あまりにも短すぎるということだけだった。
「この国が分からない」ということが今回の旅で分かったことだった。
経済成長が著しくGDPは日本を抜いて世界第2位になろうとする中国は、日本とも世界とも切っては切れない 関係になっている。
世界が注目するこの国の形を、僕はもっと理解しなければならないと感じた。
この国の旅を終えた。
日本は10月が近づき夏が終わり秋に突入していた。今年の僕の夏は中国で始まり中国で終わった。 May 29 浮浪雲~中国 (七)杭州 2008.9.13-2008.9.19
中国への旅は終盤にさしかかっていた。 北京での滞在中に次の目的地をどこにするのかを決めあぐねていた。 このまま北京から上海に戻ろうか、それとも古都である洛陽と長安へ向おうか。 移動日数と交通費、残りの滞在日数を考えて悩んでいたのだが結局選んだ場所は 上海から西にある杭州という場所に決めた。
次の目的地である杭州に決めたのは地球の歩き方に上海と一緒に杭州と蘇州が 載っていたからと言うことが単純な理由であったが、西湖という湖に非常にもそそられたからだった。
目的地は決めたが杭州まで何で移動をしようか、バスにしようか、それとも電車で行こうか。 しかし、北京から杭州までの過酷であろう数十時間の道のりをバスや電車で行くほど、 僕には気力も体力は残っていなかった。情けない。っと思ったが、もうそんなことを 言っていられる状況ではなかった。
結局、海外旅行ではあまり利用したことのない、交通手段の飛行機で杭州まで行くことにした。 それに、電車の運賃と航空運賃が百数十元しか違わなかったのも飛行機を 選んだ理由だった。
航空券を予約して、その2日後には北京のユースホステルをチェックアウトし 北京空港まで電車で行き飛行機に飛び乗った。
北京国際空港はサッパリとした感じで閑散としていた。これが人口13億人の中国の首都にある空港であるとは 思えないほどだった。
チェックインして飛行機に乗り込み、無事に離陸をした。 水平飛行に入るとフライトアテンダントが昼飯を運んできた。僕を見るなり中国語でビーフかチキンかを 尋ねてきたのだが中国語は全く分からないので「中国語が分からない。」と言うと、1つため息をつき 英語でどちらかを聞いてきた。
金を払って飛行機に搭乗している客にたいして、その人を不快にさせるため息を 何故いま僕に浴びせるのか理解できなかったがこれが中国人のサービスなのだと自分を納得させた。
しかし、その後もドリンクを僕の腕にこぼして謝りもせず紙を渡すのみ、さらに通路側に座っていた僕が ヒジをひじ掛けにおいていると横を通るフライトアテンダントの尻が当たってカクンとなる。それも一度ではない 二度三度だ。これもやはり謝りもしない。中国の飛行機がこれほど不快な乗り物だとは思わなかった。
ともかく、飛行機は無事に杭州空港にたどり着いた。
北京を出発する時は快晴だったのだが、杭州は雨だった。 この雨空のドンヨリした雰囲気と雨が今の僕の不快な心境を表しているようだった。 リムジンバスに乗り街へ移動したが、その移動中に車窓から見える中国の家がどれも中国らしくなく、 さらに全部同じ形の家が並んでいることに不思議さと面白さを感じた。
杭州駅にバスが到着したが、ユースホステルまでどうやって移動しようか考えていると、バス停に タクシーが待っていた。いかにも怪しそうな中国人ドライバーが寄ってきて地図を見て「20元」だと 言ってきた。日本以外の世界中どのこ国をこの手のドライバーが観光客相手に正当な運賃を提示してくる ハズはなく無視してバス停を探しだすと、そのドライバーは他の客を乗せて去っていった。
バス停を探しながら少し歩いていると、英語を話せる中国人カップルの女の子が声を掛けてきた。 北京や上海、そしてここ杭州では不思議なことに英語を話せる中国人は外国人に 「Hi」とか「Hello」とか普通に話しかけてくる。これが南米のペルーであったなら、怪しい客引きだと警戒するのだが、 彼らはごくごく親切に対応してくれた。なんの警戒も要らない、その親切がこの上なく嬉しかった。
彼女にユースホステルまでのタクシー運賃を聞いてみると大体10元ぐらいで行けると教えてくれた。 予想通り、先ほどの怪しい中国人ドライバーが吹っかけていたのが分かった。
ユースホステルまでの行き方を教えてくれた彼らと別れた後、すぐさまタクシーに乗り、ユースホステルまで行くと やはりピッタリ10元だった。
・虎跑泉 杭州のユースホステルに荷物を置き、ガイドブックに載っている観光地に行くことにした。
最初の行き場所は虎跑泉。
ここは819年創建された禅寺の虎跑寺の敷地内に湧く銘泉で天下第三名泉と称されるものだった。 ここの銘泉から湧く水で飲むお茶が美味しいというのがこの地を訪れた理由といえば理由だった。
↑虎跑泉の入り口。丁度雨が降った後だったので雨に濡れた木々がこの場所の静寂さを 引き立てていた。
↑池の中から伸びる木々。この光景に違和感を覚えるのは林学を学んでいるからであろうか。
↑今まで訪れてきた観光地に比べて人が非常に少なく静かな場所だった。 この池の周りにも人がおらず、この景色を独り占めできた。
↑敷地内にある茶屋で休憩。どうしても窓側の席に座りたくてテーブルを探したら 1つだけ空いていたのでそこに座る。お茶を頼むと御茶請けのヒマワリの種と 一緒に巨大なポットと急須が出てきた。 ゆっくり休憩しようとしたのだが、隣に座っていた中年夫婦がヒマワリの種を 口で上手に割りながらその殻を「ペッペッ」っと床に吐き出していた。 この御茶屋の雰囲気がぶち壊されてしまった。なんで中国人はっといつもながらに 思ってしまったが、これが中国なんだとここでも納得せざるを得なかった。
↑この虎跑泉の由来はこのお寺の禅師の夢の中に仙人が現れ、元々水に乏しかった この地に2頭の虎を遣わして泉を掘らせたのというものらしい。
↑ここが虎跑泉。ガラス張りになっているが確かに水が湧いて出ているようだった。
↑雨後で雨に濡れたこの森にある虎跑泉の美しさがとても印象的だった。
・新彊料理店 新彊料理は以前にも書いたが中国の旅でよく食べていた料理だった。 上海でも北京でもこの新彊料理の店を探しては入り食事をしていた。 打ち立ての麺を茹でて出してくれる焼そばやラーメンは最高に美味しかったし安かった。
杭州でもYHの近くにある新彊料理の店をさがして入ったのだが、ここの従業員はみんな 陽気で日本人の僕を面白がって接客してくれた。牛肉麺が一杯7元(112円)で食べられる。
↑雑居ビルの1階にある小さな店だが麺の茹で釜が外にあって、迫力があった。
↑店内で客の目の前で麺を打つ。このようなお店は街のいたるところにあるのだが、 特にこのお店のお兄さんが愛想がよく自分の水筒からお茶をくれたり、桃をくれたりと親切にしてくれた。
↑こうして人数分の麺を注文を受けてから延ばしてくれるのだが、その手さばきの見事なことと いったら素晴らしかった。
↑打った麺を茹でる。
↑このお店の店員たち。一番左の男の子が息子さんのようだったが、一生懸命働いていた。 一番左側は奥さんで、この奥さんも店のお勧めを教えてくれたり、中国語で日本のことを聞いてきたり 色々話しかけてくれたのだが僕は中国語が分からないので会話にならなかったのが残念だった。
・西湖
杭州には西湖という湖があるが、この湖は中国十大風景名所の1つに数えられており、杭州随一の観光名所である 杭州を訪れる目的はこの湖を観光することだった。
僕が泊まっていたユースホステルは西湖の直ぐ横にあって徒歩30秒ほどで西湖の湖畔まで行くことができた。 杭州に来てからは1日に1回は必ずこの西湖を眺めたり湖畔の遊歩道を歩いたりと毎日、目にしていた。 この西湖は中国にしては、きれいな場所で湖にも遊歩道にもゴミはほとんど無かったしきれいに整備されていた。 その光景が中国にしては奇跡に近い快挙のように思えたが、この西湖観光による観光収入を考えたら、 金のためにきれいにするという、中国人の利害に合致するのだろうと思いをめぐらせてしまった。
西湖の周辺には観光客用のお洒落なレストランが多数あったが、どれも僕のような貧乏旅行者が入って 食べられるような値段ではなかったので、毎日それを横目に見ながら中国の旅で食べなれていた安い新彊料理を 食べ続けていた。
西湖周辺にはガイドブックを見る限りでも、多くの観光地が存在していた。 杭州に来てから天気がよくなく雨が降る日が多かったが、晴れた日に西湖観光をすることにした。
↑西湖遊覧船。船着場から西湖内にある島を巡り対岸に着けてくれる船。 船頭付きの手漕ぎボートもあったが効率的ではないと思ったのでこちらの遊覧船を利用した。
↑遊覧船に乗り湖上から見る丘。真ん中に立っている塔は宝石流霞(ほうせきりゅうか)という場所にある保俶塔。
↑遊覧船に乗り最初にたどり着いたのが湖心亭という小島。 周囲200mぐらいだろうか本当に小さい島に建物が建っていた。
↑昔の湖心亭。その昔、乾隆帝が作った島であることが館内の案内で分かった。 昔の写真はなんだか殺風景な感じかするが、白黒写真と立木の葉が落ちているためだろうか。
↑湖心亭の島内。北京の紫禁城にあった建物のミニチュアのようだったが、ここでも瓦は黄色で 皇帝が所有する建物であることが理解できる。
↑さらに遊覧船に乗り、もう一つの島、小瀛洲(しょうえいす)へ。
↑小瀛洲の島内。この島の面白いのは島内に4つの池があり、 この島を上から見ると丁度、鹿児島県のマークのように丸に十の字よのうな形をしていた。
↑小瀛洲には西湖十景の1つ三潭印月という名所があるが、その石碑が島内に建っていた。 このような石碑が西湖周辺ではあちこちにあり、それぞれの場所で見れる西湖の景色を書いていた。
↑小瀛洲から外の湖上には湖上に浮かぶ石塔が3つあり、これが三潭印月の意味でもある。 三潭印月とは、月夜の晩にこの3つの石塔を船上から眺めた景観美をさしているとのこと。 仲秋の名月の時にはこの塔に火が燈されるようで、湖面が金色に輝くという。
↑西湖遊覧を終えて、歩いて名所である宝石流霞まで行った。遊覧船に乗ったときに見えた保俶塔の下まで 行ってみたが下から見上げて見たが、遠くから見たときには高い塔だと思っていたが実際にはそれほど 大きくはないという印象を受けた。石造りの6角7層の塔で高さは45.3m。
↑名所、宝石流霞にも名前の由来があって、手前の岩場の岩石が酸化鉄を含むようで、光を受けると 山肌が宝石のように輝くということから、この名前になったようである。保俶塔から歩いてこの岩場まで いったのだが、岩場に上るのが一苦労な上に手すりも何もなく足を滑らせたらそのまま下に落ちてしまう 恐怖感があったが、そこからの眺めは良かった。
↑岩場からの眺め。杭州に来て色々な場所に行き、様々な景色を見てきたが、 西湖の風景の中でここからの眺めが僕は好きだった。
↑夜になって湖畔を歩いているときれいにライトアップされた塔が暗闇の中に浮かんでいた。
↑名所、雷峰夕照。意味は雷峰塔に夕日が重なった時に見せる輝くような美しさから名づけられた。 奥に建っているのが雷峰塔。
↑昼間に歩いて通った時と、夜訪れるこの場所は雰囲気が全く違っていた。 人もおらず、ライトに照らされた建物はとてもきれいだった。
↑雷峰塔の入り口。古い建物だとばかり思っていたら、近代的な塔であった。 以前建っていた塔は倒壊して2002年に新しく復元されたようである。
↑塔内には古い塔の残骸がそのまま展示してあった。
↑7層建ての塔の層内。エレベーターで頂上まで登れるのだがエレベーターを降りたフロアは 近代的で煌びやかだった。
↑精巧に彫られた彫刻。こんな彫刻が塔内にはいくつもあった。どれも中国の古い物語を かたどったもののようだった。
↑塔の展望台からの夜景。昼間行った小瀛洲を見ることが出来た。湖面に浮かぶ小瀛洲と その奥にある灯り、心地よい涼しい夜風に当たりながらしばらく見入っていた。
杭州には7日間滞在していたが、この西湖観光以外にも様々な人と出会い、また出来事もあった。
或る日、西湖観光を終えて部屋に帰ってくると一人のハンガリー人がいた。 彼の荷物が数日前からベッドの周辺にあったことは知っていたが持ち主が居らず、誰なのかわかなかったが、 荷物の持ち主である彼と部屋で出会い、自己紹介をした、直後に彼がものすごい剣幕で喋りだした。 彼は上海へ1日観光旅行に行き、そして本当は昨日の夜中に、杭州に戻ってくる予定だったのだが、 上海でフランス人のゲイに捕まり帰れなくて1泊して帰ってきたとのことだった。
その経緯を彼は、 「俺は上海であるフランス人の男と出会ったんだ。その男がものすごく親切な男で飯をご馳走になり酒も飲ませてもらい、 その後、クラブに行ったんだよ。クラブには旅行者や駐在のヨーロピアンが多くいて、中国人の女も多かった。 しかも、中国人の女は皆すごくセクシーだった。クラブを出た後、そのフランス人の男が 夜遅くなったから家に泊まっていけというので彼のマンションまで行き部屋でくつろぎ出したのだが、彼がいきなり マッサージをしたいと言ってきたんだ。俺はなんか変だと思ったら、案の定、彼はゲイだった。マッサージをさせてくれと しきりに懇願され、さらにお金もやるからと言われたが、俺はゲイではないし、特に男に身体を触られるのは嫌なので断り マンションをを飛び出したんだよ。だけど、杭州に帰ろうとも、夜遅くてもう電車が無いので仕方なく上海に一泊したんだ。」
「それは大変だったね。」っと僕が言うと、彼はさらに付け加えた。
「でも、上海のクラブでは何でもありだった。金さえ出せばなんでも出来そうだ。いい酒も飲めるし、マリファナもあったし、 中国人の女とも金次第だった。今度、上海に行く時は絶対に金を沢山持っていくことにするよ。」
彼は、今まで世界11ヶ国を11ヶ月間かけて周り中国を最後に母国へ帰ると言っていた。 僕はそんな彼にどうしても中国の印象を聞きたかったので尋ねてみると彼はこういっていた。
「例えば、上海では道を走る車と言えばベンツやポルシェなど高級外車がほとんどで、金持ちの人口はかなり 多いと思う。しかし、駅や路上で物乞いをしている人にびた一文もあげようともしない。旅行者の俺でさえ、 足を不自由している老人にポケットの小銭をバケツに入れたよ。それに他の外国人が同じようにしているのを 見かけたが中国人がそれをしたところを見たことがない。」
僕の持っている中国に対するほぼ印象と同じだった。 やはり中国に対する印象の悪さと言うのは、僕個人的な感じ方なのかもしれないと思っていたことを、 万国共通の認識事項だったとこの時点で改めた。
その後、彼は一通りの出来事を喋り終わったあと静かになって、黙々と部屋の荷物をまとめだした。 昨日の出来事をどうしても人に話したくて仕方が無かったのだろうと僕は察した。
ユースホステルでは2人の日本人旅行者と出会い、その他にもドイツ人やアメリカ人、国籍不明の東アジア人等々 様々だった。そんな彼らと出会いと別れを繰り返しついには1週間の滞在も終わり杭州から上海へ移動する日がやってきた。
電車で上海に戻ろうと思いチケットを取りに杭州駅まで行ったのだが、人でごった返していた。 チケットカウンターの窓口に人が並んでいたので、その後ろに並び順番が来るのを待っていたが、横入りの応酬だった。 いい加減この状況にうんざりだったが、ここは中国なので仕方がないと諦めて、横入りを制しながらやっと僕の番が回ってきた。
中国語も分からない上に、英語が通じない場合は漢字で筆談をする。日本人として他の外国人よりも 中国を旅する上で優位な点である。
出発日時と上海の到着駅、座席指定など筆談をしながら何とかチケットを取ることが出来た。 とりあえずホッとして、これで上海に戻って数日後には日本に帰国できると思うと、急に日本が 恋しくなってきてしまった。
上海までは日本で言う新幹線が開通しているのでそれに乗ることにした。1時間45分で上海に到着する。
上海に戻る新幹線に乗り窓の外に広がる景色を見ていたが、のどかだった。成長著しく日本のGDPを抜く 勢いがある中国だが巨大な大陸の都市と都市を結ぶ線路沿いには未だ開発の手が入らないのどかな農村が 広がっていることにどこか安心感のようなものを感じてしまった。 March 17 浮浪雲~中国 (六)・雍和宮 中国には漢民族の他に満州族、チベット、モンゴルなどの民族が存在している。 13億人もの人口が住んでいる国なので地域によっても文化や習慣、もちろん宗教も違うはずである。 この雍和宮もその民族的なものを象徴する建物である。北京にあるラマ教(チベット仏教)の聖地の 様な存在で観光地として紹介されているもののどこか他の観光地とは違う静けさというものを 感じることが出来た。宗教的な意味合いが強い場所なのだからかもしれない。
雍和宮へはユースホステルからバスですぐにいける距離にあった。 北京滞在も見るべきところは一通り見て回ってしまったので、暇つぶしするつもりで ふらっと行くことにした。
↑入り口。 なんとなくだが北京にある歴史的な他の建物とは違った感じがした。 後で調べたことだが、この寺院群は各民族の建築様式が融和した建物ということだった。
↑門を入って直ぐに拝む場所があり、子供から老人まで線香に火をつけていた。 僕はこの線香の香りが嫌いではなく、なんとなく懐かしささえ覚えた。 この煙の向こうに見える仏殿が尊く感じられた。
↑経典の書かれた円筒形の筒を回して参拝する。ラマ仏教独特の方法である。
↑ラマ仏教の僧侶と熱心に参拝するおばさん。失礼な言い方かもしれないが、中国人に ここまで熱心な信仰心があるとは正直驚いた。ゴミをあちこちに捨て、誠実さが感じられない、 粗暴な振る舞いをするという印象が僕にはあるだけに信じられなかった。
↑孔廟国士監という孔子を祭った場所が雍和宮の道を挟んで隣にあったのでそこにも訪れた。
↑科挙という国の高級官僚採用試験というものが昔あったらしく、その状況を人形をつかって 再現してある。この孔廟の横には国士監という建物もあり、そこで科挙の試験が行われて いたらしい。
↑孔廟を出た前には御茶屋があったので休憩に立ち寄ってみた。 お茶を頼むと説明しながらお茶を入れてくれた。静かな雰囲気で外国人対象で 店を出していることが直ぐに分かった。従業員も流暢な英語を喋っていたが お茶の値段はそれ相応だった。
↑しばらく御茶請けを食べながら今までの中国の旅をぼんやり思い返していたが、 この国のことを理解できない自分をどうしても理解できなかった。 日本の隣国であるこの国は、僕の中で知らないうちに美化され日本のルーツが ここにあるはずだと勝手に思い込んでいた。欧米に比べれば日本文化に近い国であると 思わずにはいられなかった。しかし、それは旅を続けるうちに、もろくも崩れ、勝手に思い込んでいた 感情を裏切られたように感じていた。それが僕がこの国に違和感を覚える理由に他ならなかった。
この先旅を続けていくうちに、または旅の終わりには僕はこの国のことを理解できるのだろうかと 真剣に考えた。お茶を飲みながら禅問答のような迷宮に迷い込んだ感じがした。
・明十三稜 明王朝の歴代の皇帝が眠る墓が北京郊外にはある。ここも世界遺産に登録されている建物なので この際、行くことにした。
市内からローカルバスを乗り継いで行ったのだが、例のごとく不親切な案内に惑わされて、悩まされ なんとか着くことが出来たのが朝ユースホステルを出てからすでに昼を回っていた。 ローカルバスを乗り継ぐ間に朝食を食べていないこと気がつき、バス停の近くにあった 果物屋によってブドウを買った。言葉が分からず身振り手振りでブドウを購入したのだが、 一人では食べきれないほどの量だった。しかも12元(192円)。
喉が渇き果物が食べたいと前々から思っていたが、中国の果物を口にするのがどうしても躊躇した。 料理ならば火を通してあるし一応は安心できるのではないかと思っていたが、果物に関して、特に ブドウのように皮さら食べるものに対しては少し不安があった。日本でも盛んに中国食材に対する 悪いニュースが流れていた時期であった為になおさらだった。
しかし、果物屋に並んだみずみずしい果物を見ていたら、どうしても欲望を抑えきれずに買い、 バスを待つ間に食べてしまった。1つ食べるとその美味しさに農薬やなんやらの話は頭から消え バスを待つ間に結構食べていた。食べた後にお腹を壊したわけでもなかったので不安はタダの不安だった と後で気づいた。
↑バスを乗り継いで神道という墓稜に続く道にたどり着いた。観光地なハズなのに静かなところで 人は全くいなかった。ここに立ち寄る観光客はほとんどいないんだろうと感じた。
↑ここには動物や人の石造を左右に配置してある。
↑象の石造も精巧に出来ているが、昔の中国には象がいたのだろうかと素朴に感じた。 きっと昔の皇帝が遥か南方から取り寄せたりしたのだろうと思いを寄せた。
↑石造は意外と大きいのが分かるだろうか。僕の身長は177cmなので石造は3m以上は あるだろうか。
↑写真を写真で撮ったので上手く分からないかもしれないが左側が昔の写真で 右側が現在の写真。昔の殺風景さがよくわかる。
↑神道を通り終え、定稜という墓稜までバスで移動することにした。 車窓からの風景はのどかで果物畑が続いていた。こんな場所で取れる果物に 日本で報道されているような相当量の農薬を散布しているとは、とても信じられなかった。
↑上の写真に写っている車はベンツ。この写真に写っているのは三輪車。 同じ道を走っている車が最新のベンツと三輪車というのが面白かった。 今の中国を象徴しているようだった。
↑中国のバスは日本のバスを2台縦につなげたような感じで連結部分に蛇腹のようなものが ついていてカーブではくの字に曲がる面白いバスだった。バスには必ず服務員が乗っていて 料金を徴収していた。バスの中で記念に写真を一枚撮ったら服務員の女性に睨まれて しまった。この服務員の女性の年は20代前半だろうか、今まで乗ったバスではおばさんが服務員を していたので珍しいなと思った。
バスが定陵についてバスを降りようと降車口へ行くと、横からの視線を感じ彼女を見ると目が合った。 彼女は二つ折りにしたメモ用紙を僕に手渡してくれた。 僕はキョトンとしながらそれを受け取り、何かを彼女に言おうとしたが、彼女はメモを手渡して直ぐに目をそらし、 僕は後ろの乗客に押されながらバスを降りた。
メモ用紙を開いてみると
You can take bus No,314 go home,7:40pm No314 No314 go to 昌平東 換 No919,345 go to Deshengmen
と書かれていた。
メモを見て帰りのバスの時間を書いてくれたのだとすぐに理解できたので、バスに乗っている彼女を見上げると 彼女はこちらを見ていた。とっさに「Thank you」っといって手で合図すると彼女は笑っていた。
僕は単純に、そして本当に嬉しかった。
この中国の旅で理不尽さを覚えることはあっても親切にされることは皆無に等しかった。いや全く無いといってもいい。 その中で中国人の彼女が手渡してくれたこのメモが、帰りの時間を教えてくれていたことよりも その親切心がこの上なく嬉しかった。
物質的な行為よりも、行為に対する気持ちが大事なのだと改めて感じた。
この感覚は日本人独特の考え方なのだろうか。日本人としてのアイデンティティーのようなものを 感じた瞬間だった。
今でもその手紙は僕のパスポートケースに大事に折りたたんでしまってある。 中国の旅の中で一番の思い出であり自分へのお土産だと思っている。
↑定陵の入り口。日本にはこれだけ大きな墓稜があるだろうか。敷地建物どれをとっても それを凌駕していると思った。
↑中国の旅も中盤に差し掛かり、中国料理も飽きてきた。そんな時におやつ感覚で食べた カップめんが、かなり美味しいことに驚いた。それから昼には中華料理を食べるよりも カップめんを食べる方が多くなった。しかもこのカップめん3元(48円)で食べられるから 貧乏旅行者にとっては最高の食べ物であった。
↑正面に見える建物が墓稜の上に立つ建物。
↑実はこの定陵は学術目的に発掘されており、中を見学することが出来た。ここがその入り口。
↑入り口の階段を下り中に進むと地下宮殿のような場所に出る。石を重厚にまた精巧に組み合わせてあり、 ここを発掘する時に相当時間が掛かったとのことだった。
↑地下にこれだけの空間があるとは外からでは想像もつかなかった。 室内は冷たかった。壁を見ても石を密に組み合わせてあり昔マチュピチュやクスコで見た 石組みよりもさらに精巧に組み合わせてあるように感じた。
↑室内にも石を門の形にかたどったものが作られていた。
↑地下宮殿を出て、墓の上の建物からの風景。のどかな感じがする。
↑地下宮殿を発掘するにあたり、その作業状況を写真で記録したもの。 定陵の横には出土品を展示してある博物館が併設されているのでその様子をうかがい知ることが出来た。
↑出土品の宝石。宝石を心という文字にちりばめてある。比較するものがないが この心にはまっている宝石は結構大きいものだと思った。
↑王冠。きらびやかである。しかも精巧に出来ていた。
この定陵は万暦帝の墓でその没年は1620年である。今から約390年前である。 その当時から発掘されるまでの数百年の間あの地下宮殿に保存されて、 昔のままの形を保っているという事に感銘を受けた。
この定稜を見終わった後、長稜というもう一つの墓稜へ行くことにした。
定陵のバス停からバスに乗ったのだが、バスを間違えたらしく長稜のある方向とは 逆方向に向ってしまった。バスを慌てて降り、降りたバス停で反対方向のバスを待っていると バス停には杖をついた老人が腰掛けていた。僕はその横で黙ってバスを待っていると 小学生ぐらいの子供が3人バス停へ来た。僕たちは何の会話も無くバスを待っていたのだが 子供の一人は先にバスにのり去って行った。次のバスが来た時に老人がヨロヨロ立ち上がり 乗ろうとしていたら、子供達が老人の手をとりバスに乗るのを手伝っていた。
僕は恥ずかしながらその光景を見ているだけであったが、子供達が老人をいたわっている その姿勢が素晴らしいと感じた。そういえば、中国に来て思ったことだが、この国の人は 老人や子供には特に優しい。バスに乗っても電車に乗っても老人を見るや直ぐに立ち上がり 席を必ず譲る。幼い子供を連れたお母さんやお父さんが乗ってくると、こちらも直ぐに席を 譲る。こうした光景は旅の途中で数多く見かけた。
この国の旅を続けているうちに、益々この国のことが分からなくなっていった。
・火鍋 中国人の友達の楊君と、前に北京ダックを一緒に食べに行ったリンダとアニタと4人で四川火鍋を食べに出かけた。 北京でも有名なお店らしく店の前には行列が出来ていた。
この火鍋は要するに日本で言うしゃぶしゃぶのようなものなのだが、鍋には色々な味で食べられるように 鍋の中に仕切りを設けてスープを分けていた。
火鍋のことはTV番組で見たことがあり、日本人が感じる辛さとは次元が違う辛さだと聞いていたので 注文する時に辛くないスープを1つ入れてくれるように頼んだ。
↑手前が辛くないスープ。奥が辛いスープ。
手前の辛くないスープに肉や野菜を入れて食べるのは、本当に美味しかった。 醤油とも味噌とも違うマイルドなスープで食が相当進んだ。
僕が辛くないスープで美味しそうに食べていたからなのか、辛いスープで食べていた他の3人が、味見で 僕のスープにつけて食べたらあまり、なぜ僕が美味しそうな顔をして食べているのが信じられないようだった。
逆に、僕が辛いスープで食べたら、とてつもない辛さで、一口食べただけで毛穴が広がるのが分かり 汗も吹き出てきた。激震の辛さだった。
この激震スープをみんな汗もかかずに平気な顔で食べているほうが僕には信じられなかった。
肉や野菜が無くなってきて、店員に追加注文をするためにアニタが店員を呼んだ。 このブログで度々出てくる服務員というのは店員や乗務員その他労働をしている人のことを言う言葉 なのだが、この服務員という言葉は日本語で「フクムイン」というが中国では「フーユァン」と発音するらしい。
この服務員という言葉の発音が僕はとても気に入った。 中国人の発音する「フーユァン」という言葉に、どことなく優雅な感じがして仕方がなかった。
僕もこの言葉を使ってみたくて恥ずかしいながら、「フーユァン」と服務員に向って言ってみたのだが 服務員は僕に気づきもせず横を素通りしてしまった。何度、挑戦しても結果は同じだった。
楊君に何故僕が言うと服務員は立ち止まってくれないのか聞いてみたのだが、どうやら発音が 非常に悪いらしい。僕はアニタから教えてもらった「フーユァン」という発音がどうしても「フーヤン」としか 聞こえなかったのでその通り発音していたのだがそれでは通じないらしい。
何度もアニタとリンダ、楊君に発音を直してもらいながら「フーユァン」と呼んでみたら、やっと立ち止まってくれた。 なんだか達成感のようなものが湧いてきたが、中国語の発音の難しさがよく分かった。
中国語は「マー」と発音するのにも4種類あって「マー→」「マー↓」「マー↑」「マー↓↑」と語尾が変化して それぞれ意味が全く違うようである。
この発音の違いが終始、僕には全く理解できなかった。
中国語を使っている人口は第二外国をとして使っている人口を含めて14億人いて世界一話されている言語 のようだが、これが世界共通語である英語に変らなくて良かったと心底感じた。
中国語は非常に難解である。 February 07 浮浪雲~中国 (五)・万里の長城 中国へ旅に行くことが決まる以前から万里の長城にはどうしても行きたい場所だった。 万里の長城は現地で「長城」と呼ばれている。その長城の全長は6,000Kmを越えている。 宇宙からも確認できる世界遺産として有名になったのもこの長城である。 長城の建設は秦の時代だから始まったのだが、現在の長城はほとんどが明の時代に築かれたもの のようである。 (Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E)
YH(ユースホステル)にも長城行きのツアーの予約を受け付けていたが僕はローカルバスを利用して行く事にした。 朝、YHを出て地下鉄を乗り継いで長城行きのバスが出る徳勝門のバスターミナルへ向った。 どのバスに乗れば長城まで行けるのか分からず、無理だと分かっていても英語で現地の人に話しかけたが 案の定、いつものように嫌な顔をされた上に中国語で捨て台詞のような言葉をかけられてしまった。
ともかく、バス停の看板に書かれている行き先を確認して長城行きのバスを探すことにした。 何箇所か回って見てみたのだがどうやら「919」という番号のバスに乗ればいけるようであることが分かった。 ところが、このバスターミナルには919と書かれたバスが無数に存在していてどのバスに乗ればいいのかや どこが正式な乗車場なのかサッパリ分からなかった。
丁度、パラリンピック期間中だったのでバスターミナルの脇に英語の案内をする案内所のようなスタンドが あったのでそこで聞いてみることにした。
「長城に行くのは919のバスで間違いないですか?」っと聞くとボランティアの男は頷いた。 「乗車場はどこにありますか?」っと聞くと「あっち」っと指をさし教えてくれたのでその方向に歩いていくと バスは全く無かった。そこでまた英語の話せそうなツアーガイドがいる観光バスに近づいていって乗車場の 場所を聞いたが今度は「向こうの方」っと言われた。そんな調子で3,4回あしらわれた後、自力でやっと乗車場を 見つけることが出来た。結局、あっちだとか向こうだとか言っていた場所とは全く違う場所に乗車場はあった。 もう、この頃になると中国人のいい加減さに呆れて怒る気にもなれず、ただタメ息をつくだけだった。
とにかく、バスはみつけたのでチケットを買って乗車。長城の「八達嶺」という場所まで12元(192円)。 エアコンつきのバスで中国語のみを喋るガイドが一人乗車していてバスが走り出してからひたすら 中国語で長城の説明のようなことを喋り続けていた。僕は一番前の席に座り流れ行く北京郊外の風景を 眺めていた。 ↑高速道路を走る。北京はその中心部は都会だが車で30分も走ると本当にのどかな風景が 広がっていた。
↑1時間ほどバスに揺られて八達嶺に到着。
↑八達嶺の入り口。この門をくぐってチケットカウンターでチケットを購入したが 40元(640円)のところ国際学生証を提示したら半額の20元(320円)になった。 北京では学生証の威力絶大だと実感した。
↑八達嶺長城の出発地点。ずっと昔から行ってみたかった場所に今たっていると思うと鳥肌が たってきた。
↑長城を歩き始めたが、とにかく人が多かった。
↑以前、日本の女子大生がイタリアの聖堂に落書きをしたというニュースが流れていたが、 この長城ではいたるところにマジックで落書きどころか自分の名前と訪問年月日を石に掘り込んであった。 しかも長城の壁一面に掘り込みがあり、掘り込んでないブロックを探すことの方が至難の業だった。
↑天気も良く長城からの景色は最高だった。長城は延々と続いているが、この写真の左上の塔で みんな折り返していた。
↑これがその塔。ここからの見晴らしは良かったが人だらけで大変な状況だった。 みんなはここで折り返していたが僕は折り返さず歩いていけるところまで行こうと 思ってそのまま通り過ぎた。
↑通り過ぎると今までの混雑が嘘のように人がいなくなって、ゆっくりと歩き風景を眺めることが 出来るようになった。
↑この写真に写っている人たちはみんな下っているのだが、あまりにも急勾配で 手すりを持ちながら降りないととてもじゃないが歩けない状況だった。 昔、この長城を馬が通ったという話しをどこかで聞いた事があったがこの坂をどうやって 馬が歩いたのか不思議でしょうがなかった。
↑長城の塔の中。軍事目的に作られた建物だけあって堅牢に作られているのがよく分かった。
↑写真中央の奥からずっと歩いて来たのだが左下の長城の傾斜がきついことが この写真でわかるのではないだろうか。 ↑相当歩いて来たが、ここまで来ると人は僕一人しかいなくなっていた。長城を独り占めしているようで 気持ちが良かった。それからお気づきだろうか。実はこの長城の左側が外側、右側が内側である。 左側は弓矢を放つ為に壁を切り高くなっているが右側は低くなっている。 この長城の左側は昔、領土外であったことが分かる。
↑長城の終点。ここまでが人が立ち入ることの出来る限界である。
↑終点からの眺め。この距離を僕はテクテク一人で歩いてきたのだ。
僕の祖父は大日本帝国陸軍の兵士だった。今から68年前、当時23歳だった祖父は大阪から 中国の青島へ船で渡り、徐州、開封と転戦し、満州へ引き上げる時に汽車でこの長城を越えたと 帰国した時に話してくれた。その時の印象を聞いてみたのだが夜通過したらしくよく覚えていないといっていた。 祖父が通過した長城と僕が今たっている長城とは多分違う場所なのかも知れないが、 祖父が戦時中である68年前汽車で通過した長城を、68年後の今、孫の僕がそこに立っている。 祖父と自分が時代を経てここで繋がった気がした。祖父と長城の話や中国の話をすることが 出来たことが僕は嬉しかった。
終点からの眺めを座ってしばらくじっと見ていた。「竜が横たわっているかのようだ」とはよく言われる 表現だが全くその通りだと感じた。この長城は数千年前に作られ今でもここに存在している。 僕がここに訪れたのはその数千年の内のほんの一瞬でしかないと思うと、歴史の長大さを感じる。 この長城はきっと数千年の歴史の中でその時代時代の人々を見てきたはずだと思う。 僕は中国の旅を続ける中で色々な苦しみを味わったし、色々な悩みを抱えていた。しかし、長城に 立つことをずっと夢に見てきて実際にその場に来てこの壮大な風景を見ていると悩みなど どうでもよくなってきた。僕にそう思わせる力を与えてくれた気がした。 そしてこの景色には人を感動させ人の小ささも教えてくれる気がした。 この場所に来て僕は本当に良かったと思った。中国に来て良かったと心底思えた。
・盧溝橋 この橋の名前は誰でも聞いた事があるはずである。日中戦争の引き金となった場所で、中学校や高校の 歴史の教科書には必ずといっていいほど出てくる名前である。この盧溝橋の前には宛平城があり、その中には 抗日戦争記念館がある。僕はその記念館にどうしても行きたかった。
僕は日本人である。過去の歴史の中で日本人が中国と戦争を行い国を侵略したことは事実である。 時代がそういう時代であったといえばそれまでだが、いずれにしても人を殺しあった歴史があることは 事実である。しかし、日本と中国でもその歴史認識には大きな違いが存在していることは周知のことで あると思う。一方は植民地として支配した側、そして支配された側。そしてその後、敗戦国となった側と 戦勝国となった側。歴史は複雑で双方の考えかたら受け止め方があるから理解しあうことは非常に難しい ことだと思う。
ただ、僕は事実を知りたかった。日本にいて日本のメディアや本から得られる情報はどうしても日本寄りの 内容が多く事実を伝えているかと言うと疑問が残る。かといって中国の言い分も全てが事実かというと それも信憑性にかける気がする。
自分の目で実際に確かめた事ならば、多少なりとも事実を知るきっかけになるはずだと思ったため、 この場所に来ることを計画していた。
↑宛平城の入り口。この門をくぐると観光地らしい店並があったが観光客は僕一人ぐらいで 他は地元民が行き来しているだけであった。
↑中国人民抗日戦争記念館。
↑抗日戦争の歴史を写真を交えて紹介してある。普段、どこの博物館や観光地へ行っても 音声ガイドを借りることは無かったが、ここではより理解する為に音声ガイドを聞きながら 館内を歩いた。
↑当時使われていた銃を展示してあった。
↑来館者は全くといっていいほどいなかった。どこの観光地や博物館に行っても中国人がいない所など 今までなかったのに、自国の負の歴史に関しての展示物には関心がないのであろうか。それともたまたま いなかったのか。
↑このブログにこの写真を載せるのを迷ったが、事実は事実として載せるべき他と思ったので あえて載せた。南京大虐殺の時の街の光景を写した写真。中央は殺害された市民。左の写真は 子供が一人ぼっちで残された写真。左は焼尽くされた建物。 写真はその当時の光景を事実として残すものであると思う。この写真の中に写っているものは 紛れもない事実であると思う。 以前、広島にある平和記念館に行ったときにもこれと同じ光景の写真を見たことがあるが、 戦争によって引き起こされるあらゆることは悲惨であると感じた。そして今も世界のどこかで これと同じ光景が起きていることを我々は知らなくてはならない。
↑村山富市元総理が残した書。 戦後50年を記念して村山元総理がかつての侵略、植民地支配を公式に謝罪し、 現在の日本国政府も公式な歴史的見解としている。
↑抗日戦争記念館を出て盧溝橋へ。橋のたもとには石碑がたっている。
↑橋は1192年に建設されたもので、橋には形の違う獅子が501体ある。
↑盧溝橋の側面。キレイなアーチを描いた橋であることが分かる。この川の両岸で 日中両軍が対峙し日中戦争が勃発した歴史的な場所である。
前にも書いたが、この国の歴史を考える上で日本の歴史も大きく関与していることを 盧溝橋に来て感じた。故宮博物館に行ったときにもそれを感じたがこの場所を訪れてみても 同じ事を感じ同じく複雑な心境になった。
戦争をした歴史は修正することは絶対に出来ない。起きてしまったことや犯してしまったことを 後悔してもどうすることも出来ない。しかし、事実を出来るだけ正確に把握し理解することは お互いにとって大切なことだと思う。戦後64年が経ち戦争を戦い抜いた方たちは少なくなってきているが、 僕は戦争を戦った人たちから直接当時のことを聞きたい。真実はどうだったのかと。 その真実を聞くことが現在の日本に生きる我々の使命であるように思う。
・頤和園 北京には世界遺産に登録されている建物が故宮、万里の長城、天壇、明十三稜、周口店猿人遺跡、 そしてこの頤和園(いわえん)と全部で6つあり、僕はこのうち北京滞在中に周口店猿人遺跡以外は 全て訪れた。
頤和園は1750年に清の乾隆帝が造営したのが始まりでその後増改築を繰り返したが、清王朝末期の1860年に 英仏連合軍に一度破壊された。その後、1888年に西太后が再建したのだが、その再建費用は当時の海軍の 年間経費15年分に相当する額だった。その結果国家を防衛する為の海軍予算に支障をきたすようになっていった。 さらに、1900年に8カ国連合軍によって再度破壊されてしまう。そしてまた再建。西太后はこの頤和園に愛着を 持っていたらしく1年の3分の2をこの場所で過ごしたといわれている。そのために破壊されても再建をくりかえしたの である。 (Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%A4%E5%92%8C%E5%9C%92)
この頤和園はガイドブックに載っていたが僕はそれほど行きたいとは思っていなかった。むしろ北京滞在中に 時間が余ったので行こうと思ったぐらいの場所だった。
頤和園に行こうと思って出かける前日の夜にガイドブックを読んでいると、市内の大きな公園からボートで川を 登りながら到着できるように書かれていた。ちょっとしたクルージングを味わえるのではないかと思い翌日は ボートで頤和園を目指すことにした。
朝起きて予定通り公園へ行き、ボートに乗ろうとしたら98元(1,520円)取られてしまった。 98元といえば今回の旅では大金である。僕は旅行中の普段の食事は1食20元ぐらいで抑えていたので その5倍という事になる。しかも、バスで頤和園に行けばその20分の1ぐらいの値段で到着できるのだ。
断っておきたいのは、僕は決してケチではない。日本で生活していて1,600円なんて月に数回ある 大学のコンパや友達との飲み代の半分ぐらいの金額である。出し惜しみするような金額ではないのである。 ただ、旅に出るとたった1元(16円)ですら余分に取られたりすることがまかりならなくなるのである。 それは旅をするのにその予算にリミットを設定してあるためである。
しかし、すでに公園に到着してしまったし朝YHを出る時間も遅かったので今更不快な思いをしてバスを探して 頤和園まで行くのが面倒になってきてしまった。料金は高いがきっとそれに見合うだけのクルージングが待っている ハズだと思い98元を支払い船の出発を待つことにした。
↑クルージング用ボート。オープンデッキだとばかり思っていたらタダのボートだったのでガッカリだった。
↑市街を流れる川をただゆっくりと上っていくだけ。途中でおじさんが釣りをしていたり 泳いでいたりクルージングとは程遠い代物だった。
↑1時間ほどで頤和園に到着した。頤和園の入り口にある玉帯橋。中国らしい感じがする。
↑十七孔橋と南湖島。その奥に万寿山があるのだが残念ながらこの日は霞がかって よくみることが出来なかった。
↑清晏舫という船をかたどった建物。面白いのは船に外輪が取り付けられているところ。 1860年に英仏連合軍に破壊された後、再建したときにフランスの遊覧船の外観を 取り入れたようである。
↑万寿山に建つ仏香閣。頤和園のシンボル的存在。目の前まで行くととても大きい建物で驚いた。
↑頤和園の建物に施されていた塗り物。下が古いもの上が修復後のもの。
↑仏香閣からの眺め。景色がよく湖の広さが分かる。
↑ここでも神獣が屋根に乗っていた。あの神獣をもっと近くでよく観察してみたいと思うのだが 屋根の上に乗っているので出来なかった。
↑蘇州街。乾隆帝が江南地方にある蘇州の町を大変気に入ったらしく蘇州の街並みを頤和園の中に再現したもの。 この蘇州街の雰囲気が好きだった。レストランによって昼食をとったがレストランの料理は悲劇的にまずかった。 カップラーメンの方がまだましだった。
↑蘇州街の一角。森があり、街があり、水があり、蓮の葉が覆っていて雰囲気がよかった。
↑仁壽殿。僕の名前と同じ漢字の建物に驚いた。皇帝が政務をとる建物だったようで乾隆帝の時代には 勤政殿という建物だった。1888年に再建されたときに仁壽殿と名づけられ西太后や光緒帝が外国公使と 接見した場所だという。
↑なにか建物の由来や機能に自分との縁を感じてしまった。
↑昆明湖。右に見えるのが仏香閣。天気がよければ素晴らしい景色を見れたはずなのに 残念で仕方がない。
頤和園を歩いてみてその広大さに驚かされた。僕が滞在したのは5時間ぐらいであったが 駆け足で見て回ったので一つ一つをじっくり観察することが出来なかった。 湖があり森があり生命感があふれるこの場所を避暑地として利用していた西太后の気持ちも 少しは分かる気がした。
中国に来て色々な場所を訪れて思うことはとにかく広い。日本の京都は狭い敷地に神社仏閣が 立ち並び敷地内の移動はさほど苦労はしない。中国は1つの場所を見て回るだけで1日を要し 歩き回るだけで一苦労である。
国土の大きさの違いも歴史の長さも違う、そして人としての価値観も違うこの国で僕は苦労している。 しかし、それは日本人的な価値観を彼らに押し付けて比較しようとしていることこそが、そもそも おかしい事なのではないかと旅を続けているうちに思うようになった。
中国は細かいことを気にせずいい加減なことをしても、それが許される国でありそれを受け入れている国 なのだ。そしてそこで人は生活し人生を歩み続けている。それを良いとか悪いとかと判断を下すのは 自分の価値観であり他人を受け入れないという身勝手な考え方なのだと感じつつあった。
人は人、自分は自分、中国は中国、日本は日本。それぞれ良い所もあれば、悪い所もある。 今までの世界中を旅して、楽しんできた様に、中国を楽しめていなかったのは中国を受け入れようとしなかった 自分が悪いのだと思う。
そう思わせてきたのは自分がこの中国の旅でまた少し成長できたことのあかしではないかと思えた。 |
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